死んだらどうなるのか

 霊界の実相 

死んであの世に行けば、彼が生前に犯した罪と積んだ功徳によって、その行く所が決まる。

この世界での学識や地位、財産や名誉は必要ない。ただその心の光(想念のレベル)だけで決定される。肉体は失うが、霊はであり、不滅である。

死ぬと「成仏する」と言われているが、死ぬ事で無条件な浄化や解脱を意味するものではない。霊の世界は、最も暗い痛みを伴う低級霊界、その上の層である初級霊界、そして中級霊界、高級霊界、大霊界の5つの階層に分けられている。

  四代以下の先祖霊  

四代以下の先祖霊は、子孫と波長が合うので子孫と一緒にいることができ、子孫の人生に大きな影響を及ぼす。この影響力にも陰と陽があり、良くも悪くもなる。これはすべて、先祖霊の生前の人柄と人格、業(カルマ)に応じて現れる。

先祖が子孫の体に入ってくるのは、私たちがテレビのチャンネルを合わせて、特定の放送局の放送を受信するのと同じである。子孫の体がテレビで、先祖霊が電波だと思えば理解しやすいだろう。このように先祖霊が子孫の体に入ってくることを「憑依」という。

  人類は霊界の支配を受けている  

霊の世界は遠くはるかな宇宙空間のどこかにあるのではなく、まさに私たちが住んでいる私たちの町、私たちの家に在る。死とは、すべての終わりではなく単に肉体という服を脱いで透明人間になり、永遠の道に行く短い過程に過ぎないということを知るべきだ。

霊界の実相 - それは、寒さ、空腹感、暗くて苦しい生活である。死者の氣は暗く冷たい陰の氣である。また、多くの場合、死とは長年の病気の末、体が極めて衰えて延命することができないほど気力が落ちたときに迎える。したがって、死んだ霊は光である氣をほとんどを失った状態で暗い

肉体があれば寒さと痛みと空腹を解決することができるはずなのに、肉体があればやり残したことができるのに、恨みを果たすことができるはずなに...このような理由で霊は、人間の肉体を欲しがる。​

人は死後100年間、氣の波長がほとんど変わらない。氣の波長が変化しないため、自分と波長が同じ子孫と共にいることができる。

  永遠の放浪者 - 客鬼  

死んで100年過ぎると、の氣は、波長に変化が起こる。波長が変われば子孫と一緒にいることができないので、それ以降は本当に行き場がない永遠の放浪者(客鬼:正体の分からないさまざまな幽霊)になってしまう。

これらは、たまたま自分と波長が合えば、自分の子孫か他人かを問わず、その人の体に触れたり体に入って、自分がしたいことをしていろんな乱暴を揮う。

これらが最も多く集まる所は、人々がお供えをして参拝をしたり、祈る場所である。人が参拝をし真心を捧げる場所は、霊からすると最高の場所なのである。待遇を受けるためにも、彼らは天法を無視して、いたずらをしたりもする。そのいたずらというのは、能力を示し、奇妙なことが起きるようにしたり、人の病気を治したりして、霊の世界を分からない無知な人間に「神だ」と信じさせるものである。

瞑想や禅、祈りなどの精神修練に没頭すると霊感が敏感になって先祖霊の言葉を聞くことになる。先祖霊は厳しい修練の代価として子孫に易学、風水、占、病気を治すなど、様々な霊能力を身につける。しかし、悟りを開くことは出来ず、修行者は体だけ壊れてしまう。なぜだろう?

先祖が子孫の悟りを開くことはできない。自分が学んだことを教えることしかできない。悟りを開くとは、自然の心を知り、つまり大自然と心が通じ、そしてその理を自分自身で見つけることなのだ。

  霊能者、予言者、芸術家の他の顔  

子孫に憑依しているのは、低級霊や初級霊だけではない。中級以上の霊も想いを果たすために子孫の体を借りることになる。この場合、低級霊や初級霊の霊障とは違う現れ方をする。なのでこれらは通常、憑依されたと思わず、自分の人間性や気質がそうなのだと勘違いすることが多い。

生きている時、学問に心酔し、または修行をしたが、結局悟りを開くことができなかった先祖が、死んであの世に行ってみると、思い描いた悟りの道が目の前に明るく見えるだろう。もう一歩で叶えられなかった悔しさと、今こそ生前の夢を叶えられるという思いで、子孫の体を借りる。

そのような先祖が憑依すると、その子孫は、ある日突然の衝撃と共に性格や考え方に変化が起こる。世俗的な価値観から心が離れて、ただ生と死、そして人生の真の道は何かという哲学的な思索にふけり、精神世界や東洋哲学などに興味を持ち始める。